フィリピン・セブで、ショッピングモールやスーパーに買い物へ行くと、物乞いに出会います。
車で信号待ちの時にも窓越しにノックしたり、覗き込んで手を差し出してきたります。
そのような場合、私は、基本的には無視して場をやり過ごします。
明確なポリシーがあるわけではありませんが、はした金を渡したところでどうなるわけでもないという意識がどこかにあると思います。
しかし、セブの私立小学校で学ぶ子供の勉強をみていた時に、物乞いに対する姿勢が書かれてあって、ちょっしたカルチャーショックを受けました。
教科書ではどのように書かれてあったのか、また、日本との違いなどについてお伝えします。
物乞いには、施しをすべき~フィリピンの小学校の教科書
小学3年の娘がセブの私立小学校に通っています。(今はオンライン授業)
小学校の授業で「Charater Fomation for National Building」(日本の道徳のような科目)という科目があり、他人を思いやる心や善悪についてなどを勉強します。
その中で、様々な場面とその場にいる人たちの行動を描いたイラストがあり、生徒がその意味などを説明するという課題がありました。
まず、このイラストは病気で入院しているおばあちゃんをお見舞いする家族。
これは「お年寄りや家族を大切にしましょう」といったところでしょうか。
次に物乞いと家族のイラストがありました。
両親と2人の子供たちが、食べ物を物乞いに渡している場面です。
家族は優しい表情で行動し、困っている人(物乞い)には施しをすべきというメッセージが読み取れます。
このような行動を取らない私は説明に困りましたが、とりあえず、娘は「困っている人は助けるべき」というような説明を書きました。
フィリピン人は物乞いに対して優しい
フィリピン人は物乞いに対して優しい対応をする人が多いような気がします。
進んで近づいていって、小銭を渡したり、ファーストフード店などで食べ物とドリンクを買ってきて、渡す人の姿をよく見かけます。
また、ショッピングモールやスーパー、レストラン等の店の前、駐車場に物乞いがいても警備の人は追い払うことはしません。
物乞いに対して優しいのは、キリスト教徒がほとんであることも影響しているのでしょうか。
キリスト教やイスラム教の文化では、乞食は決して恥ずかしいことではなく、困っている人には、無償で手を差し伸べてやるのが、神の前での人間の義務だと教えられているようです。
前述の娘の教科書の記載もそうしたことの一環だと思いました。
以前読んだ困窮邦人について書かれたノンフィクション作品では、住む場所も失った日本人が教会に救われたことが書かれていました。
アメリカでもそうなのかもしれませんが、教会はセーフティネットの一つになっていると思います。
物乞いに否定的な日本社会
一方、日本では、軽犯罪法第一条二十二で「こじきをし、又はこじきをさせた者」は「拘留又は科料に処する。」とされています、
物乞いが軽犯罪法に違反するとされているのです。
日本では、最近は物乞いはほとんどいません。
昔は街に物乞いがいましたが、忌むべきものとして見られていたと思います。
正直なところ、私も物乞いに対しては否定的な意識があると思います。
また、「一時的な施しという目先の事をやっても、問題の解決にはつながらない」という考え方がある一方で、「施しによって1人の命が救われるかもしれない」という意見もあります。
フィリピンでは貧困層の人は稼げないから職業的に物乞いをやっているという話もありますが、それはそれで大変だと思います。
もちろん、一部の富裕層や既得権益層と大多数の貧困層に二極化しているという現状は、大きな問題だと思います。
しかし、物乞いに親切に対するフィリピン人の様子を見ると、そんな理屈ではなく、広い寛容の心で対しているのだと思います。
参考:e-Gov法令検索
まとめ
フィリピン・セブに移住して7年住んでいます。
物乞いに出会うことに慣れたとはいえ、いまだ反射的に身構えてしまいます。
物乞いに対する否定的な意識によるものだと思いますが、一方で、フィリピン人の博愛主義的な対応も理解できます。
自分の中でも相反する意識がありますが、私たちを取り巻く環境が目まぐるしく変わり、明日はどうなるか分からない。
物乞いも他人ごとではないのかもしれません。